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 ありか通信 バックナンバー

Vol.175 平成27年9月

ありかのメッセージ

皆さん9月になりました。秋の味覚、クリも出始めたころですね。

ありかは相変わらずの生活をしていますが、今日は先月から旅行をしたいとぼやいていた声をちゃんと聴いてくれた人が、「お手伝いしてもいいよ。」と言ってくれてると聞いて、嬉しい。やった!!これで出かけられるぞという気持ちになりました。やはり自分の気持ちを自分だけで悶々としているよりはおもいきり、皆に伝えることが大事なんだなと思いました。
皆さんも自分一人で悩まずに助けを求めることが大事だと思います。世の中捨てたもんじゃなく、助けてあげたり、お役に立てたら幸せと思う人がいてくださる、そして助けてもらえてうれしくなる人がいて、世の中、うまくいくのかもしれません。ほんのちょっとのお手伝いがお互いの幸せに結びつくものですよね。

みんながほんの少し優しさや思いやりを持ったならば、世の中が平和になるのでしょう。思いやりとか、優しさはその人が苦しい時、悲しい時、寂しい時に、ひと声かけてくださるその言葉で充分です。
言葉を発するのも勇気がいるし、自信がない人はどうぞ”大丈夫よ”というまなざしを送ってあげてください。あったかいまなざしがあれば、そのまなざしに出会っただけで涙が出そうになります。そのために自分自身が常日頃からやさしい気持ちになっておく必要がありそうですね。

ありがとう   あなたのまなざし

    ありがとう   あなたの言葉

    ありがとう   あなたの真心

    あなたがいてくれてありがとう

    あなたと共に生きれてよかった
 


ありかはファームランドみたいな所に行ったことがないので、収穫する喜びをちょっと味わってみたいかなと思っていました。だって一年間とか半年間とか、お水をやったり、草を抜いたり、肥料をやったりして、やっと実った豊かなものをもぎる時の感動はやったことのある人にしか感じられない喜びなのではないでしょうか。
ママもあまり体験はないのではないですか。家庭菜園をやっている人たちは子供と体験を分かち合っているのかなー。車椅子で収穫できる果物や、野菜はないのかなー。どこかそういう体験をさせてくれるところがあれば行きたいね。
ありかはファームランドにこだわっているわけではないけれど、食べ物が実ったり、例えば牛さんのお乳しぼりとか、そんなものを見学するのも楽しいかなと思ったりします。何か体験させてもらいたい気がします。めったにそんなチャンスはないからね。お豆腐造り体験とか、ゴマ豆腐とか、作っているところを見学するのを探して見てください。
皆さんは何かの体験会に参加したことはありますか。どんな体験会が楽しかったのかな。聞かせてほしいです。それには注意点があって、食べられるものがいいです。陶器とか体験しても食べられないのはちょっと今回は外れです。何かをしておいしかったね。楽しかったね。という体験会を募集します。教えてください。





ゆっこの徒然なるままに

  この頃、「雲黒斎」さんのブログにはまっていて、5年ほど前のブログから読み返していて、
2012年2月23日の「人生の責任は自分にある」という文章を読んで、「うん、うん、そうだ!」と納得しました

(  ̄Д ̄) 『人生の全責任は自分にある』
そんな話をすると、「じゃあ何か、私の関与していないところで起こっているアレも、コレも、それらも全部私のせいだとでも言うのか」といった声が寄せられたりすることがあるのですが、上記の言葉で指したいことは、そういう意味ではありません。
「何が起こるか」は、自我から離れた次元の働きとして動きます。ですので、「わたし(自我)が起こした」ということではないわけです。(自分が起こしたと思えるものも、実は「全体意識」によって発動された結果でしかありません。)自我には創造エネルギーがないからです。ですから、「何が起こるか」は、「わたし」以上に「神」の責任でもあるわけです。
しかしながら、「人生の責任」となると、ちょっと違います。その「人生」を「人生」とたらしめているのでは「神」の意識ではなく、「自我」の側の意識だからです。目の前にある事物に、どのような意味や価値を見出しているか。それが、自我の側の責任です。
目の前にある事物には、本来、意味も価値もありません。(自覚の有無を問わず)目の前にある事物に、どんな意味や価値を与えているか。どのような解釈プログラムが動いているのか。自分が個人的に保有している「解釈癖・認識癖」、それが「カルマ」です。自分の人生の意味を決めるのは自分(自我)。価値を決めるのも自分(自我)。目的を見出すのも(自我)です。『人生の全責任は自分にある』とは、そういう意味でのお話です。

 上の文章で納得をしていたら、「人生の全責任は自分にある」というその「自分」自体が「存在しないんだよ」という人(大和田菜穂さん)が居て、「私は、いません。ただあることだけがあります」「ライフそのものが無条件の愛であり、完全で、満たされています。実際は、もともと欠けていない「全体」があるだけです。
どこに行く必要もなければ、何か特別なことをする必要もありません。常に探しているものだけがあるのです。何かを失った感覚というのは自分が分離した存在だという確信から生まれますが、そもそも分離は存在しません。探究も探究者も実際は存在しません。このことに幻想の「わたし」以外の何かが気づき、探求のエネルギーが消えた時、すべては明らかになります。」とか、「苦しみは、起きていることを個人的にとらえることによって生まれます」と彼女の著書『すでに愛の中にある。〜個人がすべてを失ったとき、すべてがあらわれる〜』に書いてあります。
友人の勧めで読み始めましたが、「この本を書いている人も読んでいる人もいない」なんて書いてあって私の頭は??? ちっとも理解できなくて先を読めず、二か月ほど机に隅に置いていましたが、視野の隅にチラチラして、なんだか気になり、ユーチューブで菜穂さんが対談していられる話を聞いてみたり、友人に「苦しんでいる人は最初から居ないってどういうこと?」と尋ねてみたりしていました。
この友人が菜穂さんの講演会に2度行きましたが、帰ってきた彼女は興奮して、「すごい、すごい、全然ぶれない人だよ、これ真実だよ」と興奮して話をするのを聞いて、益々興味津々になって、一気に本を読み、少しずつ面白くなってきました。
皆さんはどう思われますか?真実なのか、何なのか、楽しみです。

もう一つ、山本加津子さんのブログから。
天台宗のページに大ちゃんのことが載っていたよと教えていただきました。引用させていただきます。

 

「素晴らしき言葉たち」

遠い道でもな
大丈夫や  一歩ずつや
とちゅうに 花もさいているし
とりもなくし  わらびかて
とれるやろ

    『遠い道』原田大助・「ぼくのきもち」(クレヨンハウス刊)

 
これは、石川県の養護学校の生徒であった一人の中学生(当時)の 詩です。長い歳月、酸いも甘いも味わった人生の先達や、達観した老師の言葉ではありません。どこか優しい表情を浮かべ、これからの生き方を淡々と孫に説いているようなお爺さんの姿が想像されます。でも、中学生なんです、この言葉を記したのは。
理屈めいた解説などもいらないでしょう。むしろ解説などつけたら、この詩に接した人の心に湧き上がってくる思いにタガをはめ、窮屈にさせるだけかもしれません。

養護学校中等部教諭の山元加津子さんは、転校してきた原田大助君に出会います。山元さんは、大助君が何気ない時につぶやく一つ一つの言葉の素晴らしさに気づきます。鋭い感受性、人をやんわりと包むあたたかさ。彼の言葉に大きく心を揺さぶられたのです。そして大助君は、山元さんの助けで詩や絵の創作を始めます。
 
他の詩にもこんな言葉があります。
「もうやめや やめとこ みんな笑っている方がええにきまってるやんか」
「恐いなら そばにいたる 寒いなら そばにいたる いてほしいなら そばにいたる」
「イライラするとな おなかのなかのな 深いとこがな 黒くなって かたくなって どんどんと きたなくなる気がする」。
怒っている時、怖がっている時、苛立っている時、彼はこうつぶやくのです。
秋には「秋の空気は つぶの すきまが 大きくみえる」、冬には「夜の雪は 人の心を のぞいている」とつぶやきます。そして人には「本当に 仲よくならんと 目なんて あわせられん」とハッとする一言。最後にこんな言葉を挙げておきます。
これも説明など不要ですね。
「僕が生まれたのには 理由がある 生まれるってことには みんな理由があるんや」。 


皆さん、今月も「ありか通信」をお読みいただき、ありがとうございました。  どうぞお元気で

 


 







 

 









 

 




 







 


 








 







 

 

 

 

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