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 ありか通信 バックナンバー

Vol.171 平成27年5月

ありかのメッセージ

5月の通信の始まりです。皆さんはどうお過ごしでしょうか。
ありかは相変わらず、静かな平和な生活を続けています。静かということは、突飛な出来事はなく、日々許容範囲内の出来事が、淡々と過ぎていきます。これを平和という人もいれば、平凡という人もいれば、なぁんにもないといえるかもしれませんが、ありかはこれはこれでよしだと思えるようになりました。
以前は何か画期的なことがないと生きている意味がないように感じていたこともありましたが、今はこんな風に何もないことでも生きていることが自然でいいのかもしれない、これこそが幸せかも知れないと、少し思えるようになりました。
ありかも少し大人になったのでしょうか。横でママとゆっこが、すっかり驚いたように「大人だねぇ」と言っています。大人というものがこんなものかどうかはわからないけれど、生きていることを幸せと感じていられる、何にもないことが幸せと思えるなんて、やっぱり大人になってきたのでしょうね。だって39歳ですもの。もう10か月もすると40歳だよ。いやでも大人になるしかないもんね。

ありかの仕事は何?と尋ねられました。速攻で答えました。「ぷーたろう。」この響きいいと思いませんか。確かにありかは障害者年金で生活させてもらっているし、親からの援助で生きています。生きてていいのかなと思ったこともありました。人のお金で生活をするというのはとても困った人というイメージもありました。皆さんの前で、「皆さんの税金で食べさせてもらっています。」と言わなければならないのはちょっと辛い気もあります。
きっときっとありかが生きていることで何か皆さんに貢献できているのかもしれません。人と人とはそういう関係で成り立っているのではないでしょうか。助け合うということが、人が生きるうえでとても大切であり、其れに気づいて、力がある人は力を、お金がある人はお金を、愛がある人は愛を惜しみなく分け合えばみんなが幸せに暮らしていけるのではないかと、今日は思いました。
皆さんはどう思いますか?

ありかがママの生きるエネルギーになっているといいました。とてもうれしいです。やはり自分が誰かの役に立っているということを感じられるということはとても大切だと思います。それこそが生きがいだと思うよ。
競争社会がまだまだ蔓延中、それに巻き込まれないように。人は何も競争する意味はないのに、どうしてあの人より上とか、下とか、負けたくないとか、そんな感情が私たちの心の中に埋まっているのでしょうね。それぞれがそれぞれでいいんだという子供のころからの親のしつけや、学校教育ではっきり伝えられていたら競争しない社会になれたのかなと思います。
ありかはお陰様で誰とも競争させられずに育ちましたから、競争する意味が理解できないのかもしれません。
競争は世界中でありますよね。戦争もそれと同じ強さを比べあっているのではないでしょうか。優しさや、思いやりも競争だといいのにね。みんなでみんなのことをどれだけ思って、助け合っているかの競争だといいのにね。みんなが優しくて幸せで楽しい生き方をしたいよね。








ゆっこの徒然なるままに

大型の連休が始まりました。この通信が届く頃は連休も終わって、いつもの日常に戻っている頃だと思いますが、みな様はどんな連休をお過ごしだったでしょうか?旅行三昧の方、仕事三昧の方、何もしないでのんびり過ごされた方、皆さんがそれぞれ日々を楽しく過ごされますようにと願います。

義母が63歳で亡くなって30年になりました。
30年の法要も無事に済ませ、「次は50年の法要だけど、20年先は私たち90歳と87歳なので、やれるかどうかは分かんないね、もしかするとこれが最後かもしれないね」と話しをしました。(我が家は神道なので、1年5年10年30年50年で法要があります)
義父は若くして亡くなられて(夫が小学5年生の時)いるので、昨年50年忌も済ませましたので、嫁としてのお役目は無事に終わったという感じがしています。
義母の命日の前に、義母が亡くなるまで勤めていた保育園の同僚の先生(90歳を過ぎてお出でになると思います)から、「もうすぐ命日なので、お花でも送らせてもらおうかと思って…」とお電話を頂き、義母のことを覚えていて頂いたことがとても嬉しくて、それに、伯父や伯母たちも高齢になったり、亡くなったりで、夫が子どもの頃に呼ばれていた「たかちゃん」と呼んで下さる方がすっかり少なくなっていて、その方から「たかちゃんのお嫁さんですか?」と呼んで下さったことがとても嬉しかったです。(夫は義母が務めていた保育園に弟と共にお世話になって、たかちゃんと呼んでもらっていたようです)

義母たちは、満州から引き上げてきて、戦時中は馬小屋だった所が、人が住めるような長屋になっていて、そこで新生活を始められたそうですが、引き揚げてくる列車にソビエト兵が乗り込んできて、女性を連れて行って強姦するのが怖くて、髪を短く切って顔に炭を塗って、生まれたばかりの夫(昭和20年10月生まれ)をつねって泣かせて難を逃れた話や、強姦された若い方が日本が見えてきたお船から投身自殺をされた悲しい話や、住宅には薄い布団1枚しかなく、布団を買うお金もなくて、寒くなると布団をほどいて新聞紙を中に入れ込んで縫い合わせて寒さをしのいだ話や、一重の着物を重ねて縫って着ていた話、結核を患った義父が療養所に入院され生活に困っている時に、一足先に満州から引き上げられて、保育園の先生をしていらした方(電話を頂いた方)が、「一緒に保育園で働こう」と誘って下さって、30過ぎてから猛勉強して資格を取って保育園で働いたと言う話をよく聞いていました。
私が嫁いだころは、経済的に少し余裕があったからか、戦後の苦しい記憶がそうさせたのか、3人家族なのにお布団が押し入れにいっぱい入っていて、お茶碗などは毎年有田市に行っては山ほど買って帰っては、「たかちゃんに叱られるから」と押し入れにせっせとなおし込み、私が産後で買い物に行けないので、代わりにジャガイモや玉ねぎの買い物を頼むと、セリ箱いっぱい買ってこられて、若い私は「なんでこんなに買うのかな」とイラッとしていました。時おり実家の母に愚痴をこぼすと、『満州育ちやから、おおらかで良かたいね、ケチケチされたら、つらかばい』と諭されたものです。
とても優しくて、辛抱強く、働き者だった義母でしたが、嫁の私の心が幼くて、嫁姑の関係は、表面上は上手くいっていましたが、仕事だけではなく嫁姑の関係で心を痛めて、悲しい思いや苦しい思いをさせたのではないかと思います。
亡くなる3〜4年前に、やっと嫁姑の壁が崩れ、本当の親子の様になんでも言い合える関係になれ、入院していている時、見舞いに行くと同じ部屋の方に「娘です」と紹介されて、「御養子さんですか?うらやましいですね」と言われ、退院するまで「娘」で通しました。

次のイベントは夫の喜寿のお祝いです。
20歳のころに知り合って、47年間一緒に生きてきました。
山あり、谷あり、嵐ありの人生でしたが、「今が良ければすべて良し」ではないかと思っています。いまを楽しんで、「生きててよかった」「生まれて来てよかった」と二人が思えれば、「すべてよし!」ですね






 

 









 

 




 







 


 








 







 

 

 

 

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